解 説
◆小袖(コソデ)について◆
小袖とは現在の「きもの」という衣服の古い古称。
形態上の明瞭な特色とは
…日本の美術12NO.67小袖神谷栄子編より…
- 装束類の大袖、広袖に対する袖口が詰まった小形の袖の衣服である。
- 前身頃の左右が重なるために衽(オクミ)がついて、衿(エリ)が、首部分より、左右前身頃の胸部分から下の上部に斜めにつき身丈は、つい丈が基準。
- 平安末から鎌倉ごろの絵巻物の中の庶民の小袖姿は働く場面が多いので、身丈を短く着ている。江戸中期頃より、裾(スソ)を引いて着るようになる。
…全訳読解古語辞典より…
- 袖下を丸く縫った袖丈の短い着物下着として着用していたが、室町時代からは上着としても着るようになった。
- 絹の綿入れ。江戸時代に多く着用される
…新明解百科語より…
- 筒袖で袖口が狭く垂領たりくびで前を引き違えて着る衣服。現在の長着の原型。
- 礼服の大袖の下に重ねた筒袖・盤領まるえりの衣服。
- 絹の綿入れ。
…服飾辞典より…
- 唐制を模した礼服の大袖の下に用いる。
- 盤領筒袖の衣(=平安中期以降、朝服が礼服の役割を果たしために存続しない)
- 今日の和服の源流をなす衣(=和服とは、本来は、袖口の大小により装束(大袖)と小袖に大別される)
- 今日は、小袖のみが一般的であるために、小袖系の衣服を和服と称するようになった。
◆小袖文化◆
<表着(うわぎ)としての小袖の発生>
- 庶民の衣服の流れ=絵巻物による庶民の衣であった手なし筒袖は、袂(タモト)に丸みのある白小袖に変わり、産業や流通経済の進展とともに、色小袖、模様小袖へと発展していく。
- 公家・武家の装束の下着に用いられていた白小袖の流れ=平安末期、保元・平治の乱あたりから、肌着として白小袖を用いるようになる。のちの武家の進出が、武士道の精神と戦闘との現実から装束の表着を1枚ずつ簡略化させた。袴も省略され、戦乱の平定した桃山時代(1573~1603)には、庶民の小袖と一体となって華麗な小袖と帯の姿が完成した。
…用語解説…
唐制…(とうせい)中国の唐の制度。
礼服…(らいふく)即位・朝賀などの大義に着用した服装。隋・唐の制を参酌して設定。
盤領…(あげくび、まるくび) 盤領(まるえり)の首紙(くびかみ)の紐をかけ合わせて留めた着用法。
紐を緩めてくつろがせた垂領(たりくび)に対する名称。まるえり本来の着用法の故に、盤領「あげくび」とも読む。
朝服…(ちょうふく)皇族以下文武の官が朝廷に出仕する時に着用する正服。
手なし筒袖…(てなしつつそで)昔、庶民の着た衣服で袂がなくて全体を筒形に仕立てた袖またその衣服。
保元・平治の乱…(1156年・1159年)源義朝や平清盛といった武家が政界へ進出することになったのが保元の乱。
保元の乱の勝者の源義朝と平清盛が争い、平家が源氏を倒したのが平治の乱。
◆きものの各部分の名前◆
…新明解国語辞典より…
裄(ユキ)とは、和服で背中の中心の縫い目
から袖口までの長さ。
…広辞苑より…
袘(ふき)とは、袷(アワセ)綿入れの袖口や裾(スソ)の裏地(八掛)を表に折り返して、表から少しのぞくように仕立てた部分。ふき返し
…広辞苑より…
大袘(オオフキ)とは、きもののふきの、太いもの嫁入り衣装に多い
…和服裁縫大全集より…
裲襠(ウチカケ) 裲襠下(カケシタ)に
◆小々袖ココソデについて◆
小々袖とは小小袖(ここそで)、小さな小袖と云う意味で、作った造語です
大人のきもの「訪問着」とミニチュア着物の大きさ対比。訪問着、ミニチュア着物、共に小々袖の制作作品 題名「海へ」
◆衣桁画について◆
衣桁画という言葉は、元和2年(1616)徳川家康の逝去に際しての『駿府御分物之内色々御道具帳』『大日本史料』元和2年4月17日の条に、「洛中画」「源氏押絵」「扇ながし」「夕顔画」などと並んで「一、銀屏風衣桁画 臺双」とあり「誰が袖屏風」が描かれた当時には、衣桁画と呼ばれていた、可能性を示す。
…国立歴史民俗博物館蔵 野村コレクション 近代きもの万華鏡ー小袖屏風展朝日新聞社より抜粋…
◆小々袖額装について◆
小々袖オリジナル額装です。ミニチュア着物を取り付ける額装の、背景模様は、糊糸目友禅の衣桁柄で、地色は、引き染で制作しています。
衣桁柄は糊糸目友禅で地色は引き染制作(絹100%)
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